明智秀満や斎藤利三など、光秀に付き従った「明智家臣団」〜 大河ドラマ『麒麟がくる』後半を先取り予習!
「歴史人こぼれ話」2020年3月号
■家臣となった旧幕臣たち
ほかの家臣では、幕臣と思しき人々が光秀の配下に加わっている。おおむね天正元年(1573)の室町幕府の滅亡を機にして、光秀に仕官したようである。
光秀の娘の一人は、伊勢貞興の妻になっていたという(『伊勢氏系図』)。伊勢氏は室町幕府の政所執事の家系で、貞興は兄の貞為とともに室町幕府に仕えていた。政所は、幕府財政と京都市中の行政を担当をする重要な職務だった。二人は足利義昭に仕えていたが、室町幕府の崩壊後、貞為は信長、貞興は光秀に仕官した。そのような関係から、貞興は光秀の娘を妻として迎え、互いの関係の強化を図ったと推測される。
『光源院殿御代当参衆并足軽以下覚書』の詰衆三番に名前が見える千秋月斎の子・千秋刑部も、光秀に従っていた。千秋氏は尾張国(名古屋市熱田区)の熱田大宮司家の流れを汲む一族で、室町幕府に代々奉公衆として仕えていた。詰衆とは、当番で毎夜将軍のそばに詰める職務である。
このほかにも、松田太郎左衛門、諏訪飛騨守も姓からして室町幕府の奉行人と考えられる。光秀の取次だった細川丹波守は、内談衆(所務沙汰の審議にあたった構成員)の系譜を引く人物ではないだろうか。亀山城(京都府亀岡市)にいた曽我隠岐守は、奉公衆だった若狭の曽我氏の系譜を引くと推測される。
以上、光秀の家臣団を概観してきたが、そもそも譜代の家臣は乏しく、その中核となったのは同じ美濃出身の者たちではなかったか。その後、室町幕府のに仕えた旧臣、および光秀が支配を展開した山城、近江、丹波の国衆などを配下に加え、家臣団を拡大・形成したと考えられる。そして、重用した家臣には、自らの姓の明智を授けたのである。
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